第11回 介護作文・フォトコンテスト 受賞作品第11回 介護作文・フォトコンテスト 受賞作品

  • 作文・エッセイ部門

    【一般部門】

    【学生部門】

    一般部門

    「ぼくちゃん、涙の数だけ生きるのよ。」

    (兵庫県 中島 圭佑さん)

     あなたは私を「ぼくちゃん」と呼んだね。いつも「ほっほっほ」と笑うあなたに私はいつも安らぎを貰っていたよ。あなたの事、忘れないからね。ありがとう。

     あなたとの出会いは仕事を始めて6年目。日々の仕事に汗を流している頃。あなたは退院し、私の働く施設にやってきた。心臓が悪く、寝たきりで、生活の全てにおいて介助が必要な状態。私たちは体調に細心の注意を払ってケアを行った。その中でも職員が毎日明るく他愛もない話題で話かけた。あなたは、その時も何も話さず、ずっと目を閉じていた。

     しかし、1ヵ月が過ぎたある日の出来事だった。私があなたの部屋で食事の片付けをしている時に、突然「ねえ、ぼくちゃん」と声が聞こえた。私は驚いて思わず3度見をした。その声は間違いなくあなたからのもので、私は近くにいき声をかけた。するとあなたは、「ぼくちゃん、私お腹がすいた、ほっほっほ」と声を出した。私は嬉しくてたくさん話し掛けた。

     その瞬間から私たち介護職員と、あなた、家族様との新たな日々が始まった。あなたはどんどん元気を取り戻し、介護職員も諦めずに様々なアプローチを行った。3ヶ月が過ぎるころには、普通食を自分で食べ、手を持って歩き、折り紙も折れる程になった。医師も眼を丸くして「どういうことかさっぱり分からない。健康的にも問題ない、むしろ120点です。」と話す程であった。家族様も「もうこんな姿は見ることができないと思っていました。」と涙を流され笑顔であなたとお話をされていた。

     4月のある日、私が夜勤の時、あなたは言った。「ねえぼくちゃん、桜を見に行きましょう。」と。私は「そうですね。明日晴れたら行きましょう。」と答えた。すると「違うよ、桜は夜に見る物よ!」とあなたは言った。私はルールもあるため、断っていたが、最後に「来年は見れる保証はないのよ、ほっほっほ。」と言われた為、断る理由が思いつかなかった。私とあなたはこっそりベランダに出て満開の桜を見ながら話した。

     その時の話を私は一生忘れない。
     「ぼくちゃん、あなたは本当に良い子だね。ぼくちゃんには明るい将来を送ってほしいのよ。辛い時はたくさん泣きなさい、涙の数だけ人間は生きる意味が生まれるのよ。私は最期にあなたに会えたことが嬉しいから涙を流すことにする。」

     私は隠れて泣いた。その数日前からあなたは体調を崩し、食事が摂れなくなり、医師からも覚悟をしておくようにと話があった。

     そして最期の日。あなたは皆に見守られて天国に旅立った。
     その瞬間の2時間前の出来事を私は誰にも話していない。
     私だけが部屋にいたときにあなたは「ぼくちゃん、涙の数だけ生きなさい。」と言った。私は手を握り「ありがとう」と伝えた。あなたは「ほっほっほ。」と笑った。
     あなたのお蔭で私は、この仕事の尊さを改めて感じた。
     そして気付いた、介護の仕事が天職だと。この仕事が大好きだ。

    「祖父のノート」

    (香川県 川田 圭子さん)

     「なんで私ばっかりおじいちゃんの世話しないといかんの!?みんなももっとしてよ。もう限界やわ!」
     一息でまくしたてた後、私の頬を風が撫でハッと我に返った。
     窓が開いている。
     私が母と話していたこの部屋は祖父の部屋の真上。さっき、オムツを替えた後だからと空気の入れ替えに、祖父の部屋の窓、開けた。
     「おじいちゃんに聞こえたかも・・・」
     イライラした気分が一気にしぼんだ。
     祖父が散歩中に脚を骨折して寝たきりになった三か月前。ヘルパーをしていた私は、オロオロしていた家族を前に、祖父の介護は私が中心になってするから、と宣言した。大好きな祖父の世話を家でしたかったのだ。
     しかし、実際介護生活が始まると想像以上の大変さだった。尿道の病気を持っていた祖父は三時間おきにオムツを替えなければいけない。仕事の合間に家に帰り、祖父のオムツを替える。仕事が終わるとごはんを食べさせ風呂に入れ、夜も三時間おきに目覚ましで起きてはオムツを替える。
     三か月間のその生活で、私は疲れきっていた。その日はどうしても昼間、仕事をぬけて帰ってくることができなかったのだ。祖父のオムツを替えてくれるよう母に頼んでいたが夕方帰ってみると、敷パッドからシーツまでぐっしょりと濡れている。オムツの当て方がズレていたのだ。疲れているのに、今からシーツまで全部取り替えるのか・・・。私の感情は爆発した。いつもより荒い手付きで祖父の着替えとシーツ替えをすませると、二階に居た母の所へ行き母を責めた。いつもあなたがしてくれてるから慣れてなかった、ごめんね。その言葉に対して言い放ったのが冒頭の言葉だった。
     二階から降り、祖父の所へ行くと祖父が言った。「いつもありがとな。じいちゃん最近調子いいからトイレも練習してみないかんな」聞こえていた。私は「いいんよ、じいちゃん。ゆっくりいこうな。」と言いながら胸が痛んだ。
     祖父が亡くなったのは、その二日後だった。
     毎日かかさず三時間おきにオムツ交換していた私が、その夜は目覚ましに気付かず、二時も五時も目が覚めなかったのだ。七時に母に起こされ飛び起きて祖父の所へ行くと、祖父はおだやかな顔で亡くなっていた。医師によると老衰だという。
     私はとても後悔した。私が限界やと言ったから祖父は・・・そう思って自分を責めた。
     その日祖父のベッドのマットの間から手帳が出てきた。そこには私が祖父の世話をした記録がすべて書いてあり、感謝の言葉が日記のように綴られていた。最後のページには、たった二文字、「満足」と書かれていた。
     私は、泣きくずれた。

    「今、自分にできる事」

    (広島県 畑 政善さん)

     利用者のAさんにはいつも楽しみにされている事がありました。それは大好きなご主人と一緒に外出される事。ご主人は週に3回面会に来られます。そして毎週木曜日だけは特別な日なのです。ご主人の運転で近くのスーパーまで外出をするのです。ショッピングをしたり、お好きなお寿司を買って食べたり、喫茶店でぜんざいを食べたり…。二人での時間を楽しまれていました。Aさんはいつも楽しみにされ、「今日は何曜日?」「明日は木曜日」と心待ちにされていました。私もAさんから外出時の話を聞くのを楽しみにしていました。
     しかし1年半前から外出することが難しくなってきました。Aさんは食事を食べる際に飲み込む力が弱くなり思うように食事が食べれなくなってきたのです。同じ時期にご主人もスーパーで買い物中に倒れ、病院へ搬送されました。脳梗塞の診断でした。現在では、後遺症は残っていますがゆっくり一人で歩けるまでに回復されました。車の運転は難しくタクシーでAさんの面会に来ています。以前のように外出はできませんが、ご主人がAさんの好きなプリンを買ってきて一緒に食べています。再び二人で過ごされる時間ができ、私はその光景を嬉しく感じていました。また同時にAさん夫婦にまた一緒にスーパーへ出かけてほしいという思いも生まれていました。
     ある日、私はAさんに「ご主人と一緒にスーパーへ行ってみませんか。」と聞いてみました。Aさんは目を見開いて「行きたい。行く。」と即答。ご主人にもお聞きすると同じ答えでした。私はAさん夫婦とスーパーへ行く計画をたて、一緒に出かけました。今年の7月の出来事です。
     スーパーに着くと化粧品店、パン屋に立ち寄りました。顔なじみの店員さんが出迎えてくれました。Aさんの顔を見て「来てくれたんー。元気でしたか。」と声をかける。Aさんは頷き「はい。」と涙を浮かべながら答えた。店員さんの「しっかりご飯を食べて、また来てくださいね。」の呼びかけに「頑張ります。」と答えた。店内を見て回り最後に喫茶店へ立ち寄りました。
     アイスクリームを注文し、夫婦一緒に食べる事にした。ご主人がAさんの口元へアイスクリームを運ぶ。「美味しい。」と言い笑顔をみせた。そして涙もみせた。ご主人が「幸せか?」と聞くと「うん。」と言われまた涙をみせた。私はあの時、外出で見せたAさんの様々な表情が忘れられない。そんな外出となりました。
     私は特別養護老人ホームで働き始めて8年がたとうとしています。沢山の利用者と出会い、そして別れもありました。楽しい思い出もつらい事も経験しました。私は沢山の経験ができる介護の仕事に就いています。私は介護とは、自分の成長、感動を利用者によってもたらせられる仕事と感じています。そんな仕事はなかなかないのではないでしょうか。魅力のある素敵な仕事なのです。日々利用者様の幸せは何かという事を考え、今、自分にできる事を精一杯行っています。

    「未来を支えるパートナー」

    (神奈川県 保田 健太さん)

     生きるということはチャレンジの連続だ。それは高齢になっても、障害を抱えていても変わらない。けれど、少子高齢化が進んでいることや、医療の発展に伴い障害者も増え続けている。だから、より介護の仕事が重要なのだ。僕は介護を受ける側として、働く方に感謝を伝えたい。そして、より多くの方が介護の仕事に就くことを願っている。
     僕は全身に神経の麻痺を抱えて生まれ、医師から絶望的な宣告をされた。だが、0歳から毎日続けている訓練が功を奏し、様々な奇跡を起こし壁を乗り越えてきた。その背景には介護の力が活きている。現在、二十四歳になった僕は百名以上の介護の方にお世話になってきた。その経験の中で素晴らしいと感じたことを皆さんに伝えたいと思う。
     まず最初に、笑顔で接してくれた方に感謝しています。当たり前のことのようですが、とても大切なことです。僕は安心しましたし、リラックスして色々なことが伝え易かったです。そして、楽しくプラス思考になり、一緒にいるとパワーが生まれました。多くの言葉を交わさなくても、笑顔には人の心を結ぶ不思議な力があることを学びました。
     そして僕が最も敬愛した介護の方は、相手の立場に立って想像力を働かせ仕事をする人です。もちろん、知識や技術はある方が良いのです。でも、体の状態は一人ひとり違うので、それだけが主体になってしまうと、介護される側は心も体も置き去りになってしまうからです。また、相手の立場に立って考えられる人からは、思いやりと優しさを感じます。そこから生まれる言動は、とても温かく信頼関係を育てます。それがたとえ、厳しい言動であっても。僕は躊躇する背中を何度も押され、時には壁を破る起爆剤にもなりました。その介護の方々は「もし自分だったら」とか「自分の家族だったら」という気持ちを忘れずに仕事をしていると話してくれました。子供でも理解できるシンプルで納得の答えです。僕は人との出逢いを大切にし、相手の立場に立って考えられる人になろうと決意しました。
     このように、介護の方から学んだことは生きていく上で重要なことです。その反面、一つ気になることもあります。それは「お願いします」「ありがとうございます」の言葉に必要以上の想いを込めてしまう為、「やってもらっている」「やってあげている」という感情が定着してしまうことです。これは、日本人特有の気遣いから生まれるものかもしれませんが、国際化が進む中、あまり良いイメージではありません。介護する人とされる人は、パートナーであるべきだと僕は考えます。その関係が上手く出来れば、連携して一つの事を成し遂げた時の喜びも共有でき、共に成長できるのではないでしょうか。
     最後に、介護はこれからの社会に活気を与えて支える大切な仕事です。自信と誇りを忘れず笑顔で働いてください。一人でも多くのパートナー誕生を心から願っています。

    「散歩」

    (新潟県 梅田 純子さん)

     ビーグルの子犬を飼い始めてから私は毎晩、散歩に出かけた。目的はこの子犬、リリーの散歩で、目的地は私の実家だ。そこには母と姉夫婦が住んでいる。
     私たちが立ち寄ると母はいつも嬉しそうに、リリーの好物の煮干しを手に、出迎えてくれた。時には2人の息子にも手伝ってもらい、この楽しい任務は雨の日も雪の日も、休むことなく続いた。私にとって「犬の散歩に行くこと」は「母の笑顔を見ること」だった。
     散歩の習慣は13年目で変化を迎えた。リリーが天に召され、実家の母は86歳になり、姉夫婦も還暦を過ぎた。この頃から母の認知症が進みだした。
     母の脳裏からポロポロと記憶が消え落ちていくようで、辛かった。苦労の絶えなかった母には安らかな晩年を過ごしてほしい。散歩のパートナーを失った私は、一人で夜の散歩を続けた。その目的は母の様子を見守ること。
     私を見ると、母は決まって「あら、今日はあなた一人?リリーは?」と聞く。その様子を見て「リリーはもう死んだのよ。何回言ったら分かるの」と姉が諭すように言う。
     「そうだったかしらね」と痩せ細った肩をすぼめて母が小さくつぶやく。それなのに5分もしないうちに、「リリーは来なかったの?」と母が繰り返す。「だから、死んだと言ったでしょ」苛立ちながら姉が言う。母は黙ったまま唇をかみしめる。その右手には煮干しが握られている。
     私が実家に行くたび、母は姉に叱られていた。私は母が可哀想で、「そんなに厳しく言わなくても」と反発した。
     「電気は消してよ!」「お薬を飲み忘れているわよ!」姉の叱る声を聞くうち、私は段々と億劫になり、いつしか夜の散歩に行かなくなった。
     半月ほど経ったある日、母の好物のスイカを頂いたので、実家に届けに行った。久しぶりの夜の散歩だ。恐る恐る玄関の戸を開けるが、予想に反し、姉の苛立つ声は聞こえてこない。
     「留守かしら」と思いつつ居間を覗くと、そこにはリラックスした表情で椅子に腰かけている母の姿があった。しかもよく見ると、その足下には、姉がひれ伏している。意外な光景に驚いた私が思わず「どうしたの?」と声をかけると、「お母さんの足にかゆみ止めの薬を塗っているの」と、姉はうつ伏した姿勢のまま、頭だけこちらに向けて答えた。
     老眼の姉が、母のしわくちゃの足に額をくっつけるようにして、指の一本一本にまで、入念に薬を塗り込んでいたのだった。
     私の知らないところで、姉はこんなにも献身的に母に尽くしていた。それなのに、うわべだけを見て「姉は母に冷たい」と決めつけていたことを大いに反省した。
     こうして私は又、夜の散歩を再開した。その目的は母の顔を見ること、そして何より、姉と言葉を交わすことだ。愚痴を聞いてあげて、介護ストレスを解消してもらう、第一線で介護に奮闘する姉を後ろから支えることが、今の私にできる介護の形だ。
     子犬が作ってくれた散歩の習慣は形を変え、母娘3人の関係を繋いでくれている。

    「日々一期一笑」

    (愛媛県 多田 牧世さん)

     「死ぬ前にあんたに会えて良かった。」
     「今日もあなたの笑顔を楽しみに来たわ。」
     仕事に来て、この様な言葉を掛けていただけるなんて。「ありがとう。」は一日何度言っていただけるだろう。こんな幸せなデイサービスに勤め始めて七年目になる。
     当初は、子どもの幼稚園の時間に合わせて四時間程の勤務であった。子育てに理解ある職場で、私の希望にきちんと沿ってくれた上に、利用者との接点が少ない事まで心配してくれた。出産後社会とつながりが無くて焦っていた私にとってとてもありがたかった。働き始めると確かに利用者との接点は少ないものの、あいさつから始まり共に昼食を囲み積極的に話し掛ける事で徐々に馴染んで行けた。子どもが成長するにつれ、勤務時間も延長させてもらっている。居心地の良い職場であるおかげだ。いずれはフルタイム、正職員となるのが現在の目標だ。
     思い返せば二十三歳の時の私は酷かった。臨時雇いでかろうじて働いていたが、将来の展望は無い。自分自身、何がしたいとか一切夢は無く日々不貞腐れて生きていた。しかし、臨時雇いとはいえその勤務中に障害者施設での車椅子介助、誘導を経験し、福祉に目覚めるのだから人生とは数奇なものだ。母に相談したところ、専門学校でしっかり学んでから現場に出るべきとアドバイスされ介護福祉専門学校生となった。福祉分野の学習はとても興味深く後学への助けとなり、宿直体験もある施設実習は大変な思いをしつつも貴重な経験だった。おかげで無事介護福祉士試験に合格出来た。地元近くのデイケアに就職させていただき、結婚するまで充実した介護の職場に勤めることが出来た。
     高齢者施設に勤めていると、昨日までお元気にされていた方が翌日亡くなった、ということが多々ある。だから私は日々一期一笑をモットーにしている。一日中何度でも、私と目が合った方に笑顔を送る。今日会えたことに笑顔でお礼をするのだ。そして、誰にも必ずこちらから笑顔で話し掛けるのだ。認知症で意識が混乱し、興奮している方にこの方法は不思議と効く。笑顔でゆっくり話し掛け、相手の言い分をよく聞くと落ち着きを取り戻してくれる。
     二十三歳までの苛々して腐った感情を持て余していた私に言ってあげたい。将来は介護現場に従事し、充実した日々を送っていると。残念ながら、介護の職場は常に人手不足だ。職員一人一人の負担は大きい。しかし、人対人の温かさが実感出来る素晴しい職場である。自分自身が必要とされ、誰かの支えになり、感謝してもらえる一番の場である。一人でも多くの仲間が増えるのが今後の楽しみだ。

    学生部門

    「わたしの知らなかった離島の福祉事情」

    (沖縄県 安里 かれんさん)

     高齢化の進む小さな離島で育った私は、幼い頃からお年寄りと話すのが大好きだった。自分の何倍も生きている分、色んな経験をしていて、そこで得た知恵や体験談を聞くのが大好きで、友達とよく木陰で近所のお年寄りとおしゃべりをしたりしていた。周りのお年寄りはみんな元気で、畑仕事をしていたり、編み物をしていて、よく道を歩くと両手いっぱいのおすそ分けを貰っていた。福祉センターに通う方もみんなで歌を歌ったり、グランドゴルフをしてたりと楽しそうだったのでよく遊びに行ったりもしていた。私はお年寄りってみんな明るくて元気で賢くて楽しい方たちだと思っていた。しかし、中学に上がる頃、近所に住む祖母に異変が起きた。日めくりカレンダーが1週間前のまま止まっていたり、深夜に歩き回るようになり、「財布がない。盗まれた」と頻繁に言うようになった。祖母は認知症になった。元気なお年寄りとしか接してこなかった私は、畑仕事も趣味の鞄作りもしなくなって、毎日ぼーっとしたり、徘徊するようになった祖母がなんだか怖かった。やがて祖母は誰かのサポートがないと生活することが困難になった。物盗られ妄想、深夜徘徊がひどくなった祖母を共働きの両親だけではサポートすることが難しく、当時地元には泊り込みの介護施設がなかったため、やむを得ず祖母は島を離れ、沖縄本島のグループホームに入所することになった。入所した頃は、慣れない土地で知らない人しかいない中での共同生活に戸惑っているようで、故郷に帰りたいと訴えていた。そんな祖母を見て、島にいるお年寄りみんなが元気で健康なのではなく、元気で健康ではないお年寄りはみんなサポートが充実した沖縄本島へ移住せざるを得なかっただけだと気付いた。
     そもそもグループホームは地域密着型介護サービスの1つで、認知症のお年寄りが住み慣れた地域で生活し、これまで地域で築いてきた関係性を壊さずに支援ができるというのが特徴だ。しかし、離島出身の人が手厚いサービスを受けようとグループホームに入っても、生まれ育った島から離れて全く知らない土地で生活しなければならないのが現状だ。特に離島は船や飛行機でしか本島に行けない上に交通費もかかるため、頻繁に面会することも難しい。離島や過疎地域はなんだか後回しにされていると感じる。私は離島や過疎地域の福祉サービスにももっと力を入れてほしいと思う。確かに利用者は少ないかもしれないが、必ず待っている人がいるはずだ。
     私は今、専門学校で介護福祉や社会福祉について学んでいる。卒業後は実際に現場で経験を積み、将来的には離島で生まれ育ったお年寄りが、住み慣れた地元でお馴染みの仲間といつまでも生活できるようにするためにはどのような支援、制度が必要かを考え、離島出身でも幾つになっても住み慣れた環境で生活出来る地域作りができるような人材になりたい。

    「贈り物」

    (福岡県 細川 はるなさん)

     母は夜七時に仕事から帰宅すると、息つく間もなく向かうところがある。
     それは十五件先の身寄りのない八十六才のおじいさんの家だ。
     今までピンピンしていたのだが、先日余命三ヶ月と診断され、寝たきりになってしまったからだ。性格が頑固なため、近所づきあいもなく、母がいなければ孤独死していたにちがいない。
    「わしゃ、これしか食べん!!」
     母は、平日も土日も毎晩毎晩、おじいさんがその日口にしたい食べ物を聞きに行き、本人お気に入りの店まで買いに行く。朝は食パンとミルクティー、昼はみかん、そして夜はその時食べたい物でないと絶対食べないらしい。
    「わしゃ、病院に用はない!!」
     ガンと診断された直前も、母と口論の末、母が救急車で病院へ連れて行ったのだった。
    「ほっといてくれ!わしゃ自由が好きなんじゃ。もう、来んでええ!」
    「それじゃ、ここで白骨化してしまうでしょ。」
    「そんなやつ世の中には何人もおる!わし一人だけじゃない!」
     体はボロボロでも、頭は青年なみだ。
     母も毎夜一時間少々のこととは言え、それが一ヶ月続くと精神的にきているようで、私に八ツ当たりすることもあった。
     そんなある日のこと―。
    「はい、ご希望のアイスクリーム買ってきましたよ。」
    「アイスクリーム?アイスクリームって、何ですか?!」
     母はこれはおかしいと察知して、また救急車を呼んだ。おじいさんが入院している間に、母は必死で身寄りを探しに探し、運よくも遠縁の人が面倒見てくれることとなったのだ。
     母もほっと一安心で、その親戚にバトンタッチした。
     年も暮れのことだった。
    “ピンポーン”、玄関の呼び鈴が鳴った。
    「あのぅ、宅食の者ですが・・・。この先のおじいさんがですね、わしが万が一の時はこれをここに届けてくれということで―。」
     見ると、そこには三段重ねの見事な御節の重箱があった。
    「わしゃ、正月は毎年、豪華な御節をテーブルいっぱいに広げて、テレビを見るのが楽しみでのぅ。」
     と言っていたのを、母は思い出したという。しかし、まさかそれを自分が万が一の時にとは思いもしなかったそうだ。
     思わぬプレゼントを手にしながら、母はガンコじいさんの今まで言葉にできないでいた最後の“ありがとう”を感じていたにちがいない。

    「介護から学んだこと」

    (愛媛県 若林 のぞみさん)

     「本人はここを家だと思っていたと私たち家族は思っています。」
     この言葉は私の派遣先であったグループホームで亡くなられた利用者様のご家族から頂いた言葉です。この一言は私たちにとって気持ちをどう表現したらいいのかわからないほどの言葉でした。いて当たり前の存在であった人が亡くなってしまったという悲しい気持ち、そして最期までその人らしい生活を送っていただけたという嬉しい気持ち、本当に複雑な気持ちでした。
     ここでの「複雑な気持ち」は誰かと支え合う中ではいたって当たり前な感情なのかなとも思います。特に、私が働いていたグループホームという施設では目標が達成したと思ってもいいようなほど、家で過ごされているような気持になっていただくということが欠かせない場所です。ご飯の時間は決まっているものの、利用者様の気分が乗らないときには少し時間をずらすことや、就寝時間も利用者様の好きな時間に休んでもらったり、おやつの時には好きなものを飲んでもらったりと自然でいられるように協力することを重視しています。これは今世間で言われている「生活の質」にも繋がっているのだろうなと思います。
     しかし「介護」において「生活の質」を追求していくことは重要なことですが、そう簡単なことではないと私は施設で学びました。トイレ誘導をし、トイレに行き、ズボンを下ろし、ズボンを上げ、手を一緒に洗い、ソファーまで戻るという中で、何回「申し訳ない。ありがとう。」という言葉を耳にするか……。これは本当に「生活の質」を高めていくことをしているのかと私は思いました。「ありがとう」という言葉は本当に幸せな言葉です。しかし、何か違う。そんな気がします。
     それを考えたとき、きっと今の私たちの介護では「共生」ができていないのではないかと思いました。衣類を洗濯し、綺麗に畳まれている状況などを含め、利用者様が「今、私がここにいることで役に立っているんだ」という気持ちをもっていただく機会が少ないのです。当然、認知症の進み具合で洗濯物の畳み方を忘れていらっしゃる方もいます。ですが、これができないから、あれもできないと勝手に私たちの都合の良いように解釈をして物事を進めている状況が、多忙な職員の中から生まれています。ちょっとしたこと、例えばフロアの掲示物を季節のものに変えることや、それを職員と一緒になって作ること、様々なやり方で役割を感じてもらえる場が存在していると思います。まずは模索することから始めていく必要があると感じました。
     そして、この共生は高齢者だけにとどまらないと思います。障害を抱える人、近所の人、学校の友だち、家族。あらゆる環境に、あらゆる役割があり、共に生きていくことで充実した生活を送っていける。私は介護を通して、そんなことを学びました。

お問い合わせ

  • 第11回 介護作文・フォトコンテスト事務局
  • TEL:03-5843-9754 (平日10:00~17:00)
  • MAIL:info@kaigo-contest2018.jp
PAGE
TOP